酒場紀行 Vol.23
Bar BORDEAUXー山本五十六も通った銀座のバー
― 銀座最古のバー「ボルドー」の記憶 ―
銀座八丁目。華やかな銀座通りから一本裏に入ると、かつて蔦に覆われた二階建ての小さな洋館があった。店の名は「バー・ボルドー」。看板はなかったと思う。入口の脇に灯る赤いランプだけが、この店が開いている合図だった。分厚い木の扉を開けると、そこはまるで時が止まったような空間だった。大正時代の洋館を思わせる重厚な内装。低く落ち着いた灯り。そして静かなカウンター。

創業は昭和二年。銀座で最も古いバーといわれた店である。戦前、この店には旧海軍の大将・ 山本五十六が静かにグラスを傾けに訪れたという。戦後になると、作家・山口瞳をはじめ多くの文化人たちがこのバーに通った。店に入ると、一階にはひときわ存在感のある暖炉があった。若い頃の私は、まだ銀座で腰を据えて飲める身分ではなかった。椅子に座れば、それなりの勘定になる。女将に頼み込み、カウンターで一杯だけ特別に立ち飲みをさせてもらっていた。寒い夜には決まって同じものを頼んだ。ラム酒にお湯を注ぎ、そこへバターをひとかけ浮かべてもらう。「ホット・バタード・ラム」だ。

コートの襟を立てながら、いかにも銀座で飲み慣れているような顔をしてグラスを傾ける。だが、一杯飲めば、すぐに会計を頼む。銀座は長居は禁物。それが先輩から叩き込まれた流儀だった。二階の隅には山本五十六が必ず座っていたという席があった。特別な飾りがあるわけではない。だが、その椅子にはどこか凛とした空気があった。年に一度くらい、その席に座って酒を飲むことがあった。グラスを傾けながら、この席で酒を飲んでいた連合艦隊司令長官の姿を想像する。そんな時間も、この店の楽しみのひとつだった。
店の外には、ひとつだけ目印があった。入口の脇に灯る赤いランプ だ。だから、このランプが灯っていれば店は開いている。消えていれば、その夜はもう終わりということだった。銀座の夜を歩きながら、ふと路地を見る。あの赤い灯りが見えると、なぜだか少し安心したものだ。「今夜もボルドーはやっている。」そんな気持ちになる。

暖炉の火。山本五十六の椅子。ホット・バタード・ラム。静かにグラスを傾ける人たち。そのすべてが、あの小さな赤いランプの奥にあった。2016年12月にバー・ボルドーは静かに幕を閉じた。あの路地に、もう赤い灯りはともらない。けれど冬の銀座を歩いていると、ふと思うことがある。もしあの角を曲がった先に、あの赤いランプがまた灯っていたら——と。分厚い木の扉を開ければ、暖炉の火が揺れ、女将が変わらぬ顔でこう言うだろう。「いらっしゃいませ。」そんな幻を、今でも時々見たくなる。銀座の夜には、今でもあの赤い灯りがどこかで静かに灯っている気がする。
