酒場紀行 vol.30
「カフェ 鎌倉美学」 鎌倉の街を伝え、人をつなぐ場所
鎌倉駅西口から、御成通りを歩いて3分ほど。観光客でにぎわう鎌倉駅東口とは少し違い、西口にはどこか穏やかな空気が流れている。その一角に、2009年にオープンした「カフェ 鎌倉美学」がある。店を切り盛りするのは、オーナーの湊万智子さん。
鎌倉で暮らす人、仕事帰りに立ち寄る人、旅の途中で偶然扉を開けた人。店にはさまざまな人が集まり、カウンターを挟んで会話が生まれる。鎌倉美学は、単に食事やお酒を楽しむだけの店ではない。人と人が出会い、街の情報が行き交い、いつの間にか新しいつながりが生まれていく。そんな鎌倉らしい場所である。

海のある街へ
万智子さんは、もともと都内で働いていた。38歳の時、鎌倉へ移住。新たな暮らしの地として選んだのは、海が近く、長い歴史と独自の文化を持つ街だった。当時、地域の出来事をきめ細かく伝えていた鎌倉ケーブルテレビに入社。街を歩き、人と出会い、鎌倉の日常をカメラで伝える仕事に携わった。イベントの仕事も数多く任され、忙しくも充実した日々を送っていた。取材を通して知る、鎌倉という街の奥深さ。そして、何より街を歩くたびに生まれる人との出会いが楽しかった。それは、海がある街の放送局ならではの仕事だった。

毎年夏になると、由比ヶ浜の有名な海の家「クイックシルバー」から、毎週金曜日にウィークリーニュースを生放送した。昼間から多くの人が海に集まり、夕暮れを迎えても街の人たちは浜辺で語らい、音楽やお酒を楽しんでいた。大人たちが、昼も夜も海で遊んでいた良い時代だった。万智子さんが懐かしそうに語るその光景からは、当時の潮風や海の家のにぎわいまで伝わってくる。
取材する側から、迎える側へ
転機をもたらしたのは、由比ヶ浜を代表する海の家「クイックシルバー」のオーナーだった。オーナーが所有していた店舗でカフェを始めないかと話しを持ちかけられた。それが、現在の「カフェ 鎌倉美学」である。ちょうどその頃、鎌倉ケーブルテレビはジャパンケーブルネット(JCN)のグループに入り、JCN鎌倉と呼ばれるようになった。地域に深く入り込み、鎌倉で暮らす一人ひとりの思いや物語を丁寧に伝えてきた万智子さんにとって、これまでのような鎌倉らしい深掘りの取材が、次第に難しくなるのではないかという思いがあった。(現在はJ.COM)

そして2009年、鎌倉美学をオープンする。テレビの仕事では、自ら街を歩き、人に会い、たくさんの人の話を聞いてきた。店を始めてからは、人々が万智子さんのもとを訪ねてくるようになった。取材する側から、人を迎える側へ。仕事の形は変わっても、人に関心を持ち、その人の言葉に耳を傾け、街の魅力を伝えていくという万智子さんの姿勢は、今も変わっていない。むしろ鎌倉美学という店そのものが、万智子さんが長年続けてきた「鎌倉の深掘り取材」の延長線上にあるように思える。
マスコミ出身の二人
筆者が万智子さんと出会ったのは、新聞社を退職し、鎌倉エフエム放送の副社長に就任してからだった。ある日、偶然、鎌倉美学へ飲みに立ち寄った。初めて訪れた店だったが、万智子さんと話を始めると、お互いにマスコミの世界で仕事をしていたことが分かった。地元ラジオ局とケーブルテレビ。媒体は違っても、街を歩き、人に会い、その人の話を聞いて伝えるという仕事には、多くの共通点があった。初対面でありながら、不思議なほど話が弾んだ。取材先で出会った人のこと。鎌倉という街の面白さ。地域メディアだからこそ伝えられる物語。そして、時代とともに変わっていく街の姿。お互いに、街の表面だけではなく、その奥にいる人を見つめてきた。だからこそ、すぐに気持ちが溶け合ったのかもしれない。

店は、店主の生き方を映す
鎌倉美学には、万智子さんの人柄に引き寄せられるように、実にさまざまな人が訪れる。常連客同士が言葉を交わし、初めて来た人も、いつの間にか会話の輪に加わっている。万智子さんは、必要以上に前へ出るわけではない。けれど、一人ひとりの話に耳を傾け、さりげなく人と人をつないでいく。その距離感には、長年、取材を通して人と向き合ってきた経験が生きているように感じる。良い店には、店主の生き方が表れる。鎌倉美学の居心地の良さは、万智子さんがこの街で積み重ねてきた時間と、数え切れないほどの出会いから生まれているのだろう。
そして、ありがたいことに、鎌倉美学のメニューには「鎌倉クラフトジン露」も並んでいる。鎌倉の水から生まれた露が、鎌倉の人たちが集うこの店で飲まれている。グラスを傾けながら会話が始まり、そこからまた新しい出会いが生まれていく。その光景は、私が露を通して実現したいと思っている「人と人を結ぶ」という願いにも重なる。
鎌倉の美学とは

店名に掲げられた「鎌倉美学」という言葉。鎌倉らしさとは何か。美学とは何か。その答えは、一つではない。海や山、寺社、歴史ある建物だけが鎌倉の魅力ではない。この街に暮らし、自分らしい仕事を続け、人との縁を大切にしている人たちの生き方もまた、鎌倉を形づくっている。万智子さんは、かつて、テレビを通して鎌倉の街と人を伝えていた。現在は、鎌倉美学という場所を通して、人と人を結び、街の物語を紡ぎ続けている。伝える仕事から、集う場所をつくる仕事へ。形は変わっても、その根底にあるものは変わらない。
鎌倉駅西口から徒歩3分。鎌倉美学の扉を開ければ、料理やお酒だけではなく、この街で生きてきた人たちの物語にも出会える。今夜もきっと、万智子さんの周りでは、新しい会話と新しい縁が生まれている。
